アロイーズ・コルバスという女性がいました。
年頃に独裁的な姉に恋路を絶たれ、いとしい人のいるスイスからドイツの牧師宅へ家庭教師として送り出され、
煌びやかな世界を垣間見、やがて皇帝に恋をした彼女は、
第一次大戦の軍靴の音を聞き再び母国へと送り返されたのでした。
アロイーズは後に精神に異常をきたし、入院を余儀なくされます。
そして病院でアイロンかけの仕事を与えられた彼女は、世を去るまでにその部屋ですさまじい数の絵を描きました。
時に花をつぶした汁を使い、歯磨き粉を使い、その世界が画面に収まらなければ新しく紙を糸で縫いつけて。
青い瞳の人物、女性器を思わせる花々、むせ返るような愛のドラマ。そしてその世界の創造主としての自分。
それは過去に一度として叶うことのなかった、彼女の恋の代償行為でもあったかもしれません。
彼女の絵は劇的で、力に満ち溢れ、既成の型には一切当てはまりません。
まさにそれはアール・ブリュット(生の芸術)であり、彼女は生前から高い評価を得ていました。
しかし「画家のアロイーズ」という形骸は、彼女を縛りつけ、結果的に彼女の描く世界を、そして彼女自身をも殺してしまいます。
自由だった彼女に金の予感を嗅ぎ取って、州が絵画指導員をつけたのです。
指導員は彼女に「作品」への署名を強要するなどして、劇的な密閉空間への介入を試みました。
彼女にとって生み出される絵は、”描く”という営みの副産物でしかなかったのに。
(事実彼女は、描き上げた絵には一切の執着を見せなかったのです。)
唯一の創造主として彼女の世界に君臨していたアロイーズは、描く世界を絵画という檻に閉じ込める指導員に、その座を追われました。
もはや彼女の劇的な愛の世界は額縁に飾られる矮小な平面となりました。
そしてアロイーズは世界創造の営みを断ち切られてしばらく後、この世を去りました。
原因はわかりません。病気でも事故でも自殺でもなく、ただ、力を失って果てたのではないかと私は思います。
アロイーズ・コルバス。
描くことは何か。
彼女を思うたび、その問いかけは私に付いて回ります。
描いた画面が大事なのか?
それとも私は、ちいさなキャパシティからあふれる感情を
描くことで処理しているのか?
わたしはわたしの描くものを、自分の世界と呼べるのか?
何一つわからないまま、彼女の生の絵を滋賀で見てから一年がたちました。